何度言っても分かってもらえない
目には見えない放射能の危険性について。
実家に帰った時に、もてなされるそのご馳走に、どこのものを使っているのかなんて、親に、兄弟に、もう聞けない。
そこにはまだ幼い子どもたちが育ち、それは日常の中で、もう論じられることもないのだろう。
自分の親族であっても通じない話に、もう向き合うことにも疲れてしまった・・・
今まで何度も何度も同じことを話し、その時は頷く様子に安堵して
そしてまた同じことの繰り返し・・・
これは感性の問題だからと、当初からそう言う人がいるけれど
まさにそうなのかもしれない。
せっかくの好意に水を差してまで、「産地はどこ?」と聞ける人は、凄い。
そんな問題ではないことは分かっているけれど、これぐらいならもういいかな・・・
そんな風に妥協してしまう自分は、なんなんだろう。
もう疲れた・・・
誰かを傷つけることにも
ひとつのことを言い続けることにも。
そんな心情が、こんな今をつくり出してしまったのに
いろんな矛盾が良いと悪いの線引きを曖昧にしていき
諦めというところに導こうとする。
そこには行くまいと決めているのに
こんなところで脱力感を覚える、お正月の親族の集まり。
楽しい雰囲気を優先し
我が子に内部被曝をさせてしまったことを悔やむ。
両親の嬉しそうな様子を、その楽しみを壊したくなかった。
そんな思いやりなど偽物だと分かっていながら
大切なものを守りきれなかったことを悔やむ。
大切なものの線引きは?
問いかけはきっと、永遠に続くのだろう。
この矛盾の中に生きる私たち。
誰を責めることもできなくなっていく。
それぞれが抱える矛盾の苦しさが分かるから・・・