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7年7月8日
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    2011年3月11日を節目として数えるという新たな暦。

    今を記録に残そうとすると、必然的にそんな数え方になってしまう。

    フクシマ暦?

    カタカタ表記はやっぱり嫌だけど、それが適切なのかもしれない。

     

    2011年3月11日から数えて7年が過ぎ、その10日目ぐらいに発表されたモニタリングポスト(リアルタイム線量測定システム)の一部(2400/3000台)撤去計画。

     

    住民が声をあげ、各自治体の首長に要請書を提出し、議会に請願や陳情をして、各議会は国に意見書を提出して撤去計画の中止、モニタリングポストの継続を求めてきた。

     

    それにも関わらず今、住民説明会への参加人数の少なさが取り上げられ、「やっぱり反対しているのはいつもの人たちじゃないか」というまとめがされてしまいそうな気配が漂いはじめている。

     

    撤去はされないほうがいいとは思うけれど、具体的な動きをするまでには至らないという諦めのようなムードには理由があり、事故をなかったことにしようとする必死の国策に立ち向かうエネルギーを暮らしの傍らに持ち続けるということは、そんなに簡単なことではない。

     

    だから、「なぜ声をあげないの?」という問いに対しては、「同じ経験をしてみればきっと分かると思いますよ」と答えるしかないのかもしれない。

     

    原発事故により汚染された事実、それによる影響に対して言われている「フクシマ差別」や「デマ」といった説については、一見、被災者擁護の優しさのようにも見えるが、原発事故の加害者の罪を容認し、原発事故の幕引きに手を貸し、過ちを正すというあるべき姿勢を抑え込むものに他ならない。

     

    長い歴史の軸の中に身を置き、国境を越えた様々な問題の当事者たちとつながれば、原発事故は巨大な人権問題だということに気づくだろう。

     

    フクシマ暦の原点に戻ってあの時の記憶を呼び起こせば、過ちを正さなければという思いが自分の中に込み上げたことを思い出す。

     

    時間が与えてくれるクールな視点により、感情を脇に置くことはできるようになったけれど、それでも湧いてくるこの乾いた悲しさは、それなりに活力の邪魔をするから厄介だ。

    posted by: クリキンディ | 過ぎていく時間の中で | 19:50 | - | trackbacks(0) | - | - |